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横井小楠記念館

(よこい しょうなん きねんかん)

横井小楠記念館は、熊本県熊本市東区に位置する博物館で、幕末の思想家・横井小楠に関連する資料を展示しています。小楠が1855年(安政2年)から暮らした地に建てられ、小楠の私塾「四時軒(しじけん)」や坂本龍馬、井上毅、元田永孚などの志士たちが訪れた記録も残っています。

記念館の概要

この記念館は、横井小楠の功績を伝えるために建てられました。横井小楠は幕末から明治にかけての日本の政治思想家であり、近代日本の改革に多大な影響を与えました。記念館では、小楠の思想や功績を示す資料が展示されており、彼に影響を受けた勝海舟(かつかいしゅう)、吉田松陰(よしだしょういん)、西郷隆盛(さいごうたかもり)らの書や書簡も見ることができます。

四時軒の保存

横井小楠記念館の敷地内には、小楠が教えを行った私塾「四時軒」が保存されています。この四時軒は、坂本龍馬や井上毅、元田永孚らが訪れた場所であり、熊本市の有形文化財に指定されています。四時軒の建物は、当時のままの姿を残しており、幕末の風情を感じさせます。

熊本地震による影響と再開

2016年4月に発生した熊本地震によって、横井小楠記念館と四時軒は大きな被害を受け、一時的に休館しました。しかし、修復作業を経て2021年には再び公開され、観光客や歴史愛好家が訪れることができるようになりました。

横井小楠

横井小楠(よこいしょうなん)は、幕末から明治初期にかけて活躍した日本の政治思想家です。彼は、坂本龍馬や吉田松陰、勝海舟などの有名な志士たちと交流があり、明治維新を支えた人物の一人です。

小楠と四時軒の歴史

横井小楠は1855年(安政2年)から1868年(明治元年)に維新政府に招かれるまで、熊本の沼山津(ぬまやまつ)に居を構えていました。その間、小楠は自宅の一部を私塾「四時軒」とし、多くの志士や門弟たちを育成しました。坂本龍馬や由利公正、井上毅、元田永孚といった有名な人物もこの「四時軒」を訪れ、小楠の思想に触れました。

四時軒の門弟たち

「四時軒」を訪れた門弟の中でも特に有名な人物には、坂本龍馬がいます。龍馬は日本の近代化を推し進めた立役者であり、小楠の教えを受けることで、その思想をさらに深化させました。また、由利公正は明治政府の「五か条の御誓文」を起草した人物であり、井上毅は「大日本帝国憲法」の草案を作成したことで知られています。さらに、元田永孚は「教育勅語」の起草に尽力したことで有名です。

横井小楠に関する展示物

記念館では、横井小楠の書や書簡をはじめ、彼に影響を受けた有名な人物たちの資料も展示されています。特に、勝海舟、吉田松陰、西郷隆盛といった幕末の著名な志士たちとの交流を示す貴重な書簡が多く展示されており、当時の政治的な状況や思想の広がりを感じることができます。

小楠公園と銅像

横井小楠記念館の北東に徒歩約10分の場所には、「小楠公園」があります。この公園には、小楠の銅像や功績を称える頌徳碑(しょうとくひ)が建てられており、訪れる人々は小楠の偉大な功績に思いを馳せることができます。美しい自然の中に佇むこの公園は、歴史と自然が調和した憩いの場として人気です。

横井小楠の生涯と業績

横井小楠(よこい しょうなん)は、日本の武士であり、幕末から明治にかけて活躍した政治思想家、儒学者です。本名は横井時存(よこい ときひろ/ときあり)で、北条時行の子孫を称し、平氏を本姓としていました。彼は「小楠」という号を使用しており、楠木正行(小楠公)にちなんで名付けたとされています。

横井小楠の誕生と学問の修得

横井小楠は、文化6年(1809年)8月13日に肥後国(現在の熊本県)で熊本藩士の横井時直の次男として誕生しました。幼い頃から学問に励み、藩校・時習館で学びました。天保8年(1837年)には、時習館の居寮長(塾長)に就任し、同時に藩政改革に対する提言も行いました。

藩政改革への挑戦と挫折

熊本藩において藩政改革を試みた横井でしたが、反対派の攻撃により改革は頓挫しました。その後、彼は江戸に遊学し、幕臣や全国の有志との交流を通じてさらに見識を深めました。しかし、幕末の激動期には藩の保守派と対立することが多く、改革は難航しました。

福井藩での活躍

熊本藩での改革に挫折した後、横井小楠は福井藩主の松平春嶽に招かれ、福井藩の政治顧問となりました。ここで横井は、幕政改革や公武合体政策の推進に貢献し、幕末の政治改革に大きな影響を与えました。彼の知識と洞察は幕末の志士たちに大きな影響を与え、多くの門弟が横井のもとを訪れました。

坂本龍馬との交流

横井の私塾「四時軒」は、多くの志士が訪れた場所としても有名です。坂本龍馬、井上毅、由利公正など、明治維新を支えた志士たちが訪れ、横井から学びました。坂本龍馬とは特に深い交流があり、龍馬が横井の教えに感化され、その後の維新活動に大きな影響を受けたとされています。

幕政改革への影響と政策提言

横井小楠は幕末における改革派の思想家として、幕政や藩政の改革に数多くの提言を行いました。彼の最も有名な政策提言は『国是三論』で、これは福井藩における藩政改革のために執筆されたものです。また、外国との通商貿易を推進し、国家の産業振興と統一国家の必要性を説くなど、近代日本の発展に大きな影響を与えました。

外国との関係について

横井は、外国との通商貿易を重視する立場を取り、幕末における鎖国体制に対して批判的でした。彼は、『夷虜応接大意』を通じて、外国との交流を進めることが日本の発展に不可欠であると主張し、国内産業の振興と経済発展を目指しました。

暗殺と最期

横井小楠は、明治2年(1869年)1月5日に京都で襲撃され、享年61で暗殺されました。彼の暗殺理由は、事実無根の噂に基づいて「日本をキリスト教化しようとしている」というものでしたが、実際には彼はキリスト教の導入に反対していたため、誤解に基づく事件でした。

横井小楠の影響と評価

横井小楠の政治思想は、彼の死後も多くの人々に影響を与えました。彼の門弟たちは、維新後の日本においても重要な役割を果たしました。勝海舟は、横井について「非常に聡明であり、常に未来を見据えた意見を持っていた」と評価し、坂本龍馬も彼を師と仰ぎました。

横井小楠の思想と影響

横井小楠は、鎖国体制や幕藩体制に代わる新しい国家と社会の構想を描きました。彼は「公共性」と「交易」を重視し、開国によって日本が進むべき道を見出そうとしました。また、学問と政治の結びつきを強く主張し、討議を通じて政治を運営することの重要性を説きました。

主な著作と国家論

横井小楠の主な著作には、『国是三論』や『学校問答書』、『夷虜応接大意』などがあり、これらの文書は彼の国家論を体系的に示しています。彼は共和制を「尭舜の世」に例え、統治者が民衆に信頼される政治を目指しました。

横井小楠の家族と門弟

横井小楠には2人の妻がおり、先妻は熊本藩士小川吉十郎の娘、後妻は彼の門弟であった矢嶋源助の妹・津世子です。津世子との間には長男の横井時雄や長女のみやが生まれました。長男の時雄は、後に同志社大学の第3代総長を務め、長女のみやは海老名弾正の妻となりました。

横井家の家系

横井家は、桓武平氏北条氏嫡流得宗家に発し、北条時行の子孫として代々「時」の字を名乗りに用いていました。この由緒ある家系は、幕末から明治にかけての日本史においても大きな役割を果たしています。

交通アクセス

電車でのアクセス

横井小楠記念館へは、熊本市交通局(市電)の健軍町停留場から徒歩約25分(約2km)の距離にあります。また、桜町バスターミナルからは九州産交バスL4-1系統「小楠記念館入り口」行きに乗車し、終点で下車後、徒歩約5分で到着します。

車でのアクセス

車で訪れる場合は、九州自動車道益城熊本空港ICから約7分(約2.7km)の距離にあります。駐車場も完備しており、約10台分のスペースが用意されていますので、観光の際には車でのアクセスも便利です。

まとめ

横井小楠記念館は、幕末から明治にかけて日本の近代化を支えた思想家・横井小楠の足跡を辿ることができる貴重な場所です。坂本龍馬や吉田松陰といった有名な志士たちとの交流や、彼らが育てた門弟たちの功績を知ることができ、当時の歴史をより深く理解することができます。歴史的価値の高い「四時軒」を訪れ、小楠がどのようにして多くの人々に影響を与えたのかを感じることができるでしょう。また、小楠公園や銅像なども含め、ゆっくりとした時間を過ごしながら、横井小楠の偉業に思いを馳せることができる場所となっています。

Information

名称
横井小楠記念館
(よこい しょうなん きねんかん)

熊本市・山鹿・菊池

熊本県