熊本県 » 熊本市・山鹿・菊池

肥後国 田中城

(ひごのくに たなかじょう)

田中城は、熊本県玉名郡和水町和仁にあった日本の城です。別名和仁城とも呼ばれ、中世に肥後国の国人である和仁氏が本拠とした城でした。この城は、1587年(天正15年)に発生した肥後国人一揆において、最後まで抗戦を続けた城の一つとして知られています。

概要

田中城は「田中城跡」の名称で、国の史跡に指定されています。熊本県の旧三加和町一帯を支配していた和仁氏の拠点で、歴史的にも重要な城郭です。

城の構造

田中城は、和仁川の東側に接する小山に築かれ、総面積は約8万平方メートルと推定されています。主郭は50m×42mの楕円形の平坦部で、城周辺の水田からの比高は47mです。田中城は実戦向きの城であり、1万余の軍勢を相手に、千人足らずの守兵で38日間の籠城戦に耐えました。本丸を囲む空堀のほか、捨て曲輪跡、建物跡、井戸跡などが良好に保存されています。

歴史

戦国時代、肥後国では菊池氏が衰退した後、国人が各地に割拠していました。和仁氏もその一つで、古代豪族和珥氏の末裔とされますが、和仁氏が肥後にいつ定住したかは不明です。

1587年(天正15年)6月、豊臣秀吉による九州征伐が行われ、その後、佐々成政が肥後国主に任命されました。しかし、成政の検地に肥後の国人たちは反発し、翌月には隈部親永が兵を挙げ、肥後国人一揆が始まりました。和仁氏当主の和仁親実もこれに呼応し、弟の親範、親宗、そして姉婿の辺春親行と共に田中城を守備しました。

一揆の鎮圧に当たった佐々成政は、肥後各地での国人の反乱を単独では鎮圧できず、援軍を求めました。これを受けて、豊臣秀吉は西国の大名たちに出兵を命じ、一揆の鎮圧を指示しました。

田中城の籠城戦

田中城には小早川秀包を主将として、安国寺恵瓊、鍋島直茂、立花宗茂、筑紫広門ら約1万余の軍勢が向かいました。10月28日、彼らは田中城に到着し、城の周囲に二重の柵を築いて包囲戦を開始しました。

和仁氏は10倍以上の敵軍に対して果敢に抗戦しましたが、安国寺恵瓊の内応工作もあり、ついに12月5日に落城しました。この落城によって、和仁氏は滅亡しました。

現状

田中城跡は、昭和61年(1986年)に熊本県の史跡に指定され、本格的な発掘調査が開始されました。平成元年(1989年)には、山口県文書館の『毛利家文庫』から、攻城戦の様子を描いた絵図『辺春和仁仕寄陣取図』が発見されました。この図により、攻城側の部署や軍令が明らかになり、また城の構造も発掘結果と一致することが確認されました。これにより、田中城は戦国時代の歴史を知る上で貴重な遺構であるとされ、2002年(平成14年)3月に国の史跡に指定されました。

映像作品

2002年には、地元の三加和町により、田中城の攻防戦を描いた映画『おんな国衆一揆』(監督:三池崇史)が製作されました。この作品は、熊本県の史跡を舞台にした『熊本物語』の第三部にあたり、当時の熊本県知事であった潮谷義子氏も高台院役で特別出演しています。

アクセス情報

電車・バスでのアクセス

田中城へは、以下の交通手段を利用してアクセスできます。

車でのアクセス

九州自動車道の南関インターチェンジから県道4号線を車で約15分(約7km)で到着します。

田中城跡は、熊本県の歴史と密接に関わる重要な史跡であり、その発掘調査や関連資料の発見により、戦国時代の歴史を知る貴重な手がかりとなっています。

Information

名称
肥後国 田中城
(ひごのくに たなかじょう)

熊本市・山鹿・菊池

熊本県