鼻ぐり井手は、熊本県菊陽町の馬場楠にある歴史的な用水路です。この用水路は、阿蘇方面から流れてくる大量の土砂が堆積することなく水を通す特殊な仕掛けを持っています。16世紀末から17世紀初頭にかけて、肥後藩主である加藤清正が築造を指示したと伝えられています。
『広辞苑』によると、「鼻ぐり」とは「鼻削(はなぐり)」や「鼻木」とも呼ばれ、牛の鼻に通す環を意味します。この用語は、穴を穿って水流を結ぶ井手の構造が、牛の鼻に通す環の形状に似ていることから由来しています。
鼻ぐり井手は、別名として「辛川の九十九刎(からかわのつくもばね)」とも呼ばれていました。「九十九刎」はつづら折りの形状を表し、当時の益城郡沼山津手永、辛川村に由来しています。
加藤清正は、白川沿いにある馬場楠村に大きな堰を築き、強固な人工の用水路(井手)を掘り、下流の託麻、益城、合志の3郡に水を引きました。その井手は、特に土砂を流す仕掛けが工夫されており、400年以上経った現在でも掃除の必要がないほどの効率性を誇ります。
井手の底部は岩でできており、特に白川流域に堆積する火山灰(ヨナ)による土砂を効率的に処理する構造となっています。80箇所の地下穴(鼻ぐり)を設け、土砂が堆積せずに下流に流れるよう工夫されています。この仕組みにより、川底の激流が土砂をかき回し、自然に下流へ流れるようになっています。
『肥後藩農業水利施設の歴史的研究』によると、鼻ぐり井手は加藤清正が考案した沈砂施設の一つとして重要な役割を果たしています。その他にも、山鹿町井手や緑川・加勢川の合流地点にも「湾洞」という沈砂施設が設けられています。
鼻ぐり井手公園は、平成15年(2003年)に整備され、一般に公開されるようになりました。それまでは井手の全容を見ることはできませんでした。この用水路全体は「馬場楠井手」と呼ばれ、約12.5kmの長さがありますが、その中の400メートルほどの区間を「鼻ぐり井手」と呼んでいます。公園内には展望台があり、鼻ぐり井手の全景を見渡すことができます。
鼻ぐり井手の水流は、岩壁の下部にある水流穴を通り、激しい渦を巻いて下流に向かって土砂を押し流す仕組みです。この構造により、400年以上経った現在でも土砂が井手底に堆積せず、清掃の必要がありません。当時は80基の岩壁が存在していましたが、江戸時代に50基ほどが破壊され、現在では28基が残っています。
鼻ぐり井手を築造する際、岩山を20メートルほど掘り下げる作業が行われ、その作業用の階段が残されています。この階段は、岩石の搬出や作業員の昇降に使われており、手作業での掘削がどれほど困難であったかが伺えます。現在でも一部に階段の跡が残っており、風化したものの当時の作業の痕跡を見ることができます。
江戸時代、この用水路の仕掛けを知らない役人が、80箇所の鼻ぐりのうち52箇所を破壊してしまいました。しかし、残り28箇所が機能を保っており、現在でも土砂が堆積せずに水が流れ続けています。鼻ぐり井手の完成により、多くの水田が開発され、肥後藩の税収は大幅に増加しました。
鼻ぐり井手は、寛政8年(1796年)と昭和28年(1953年)に発生した2度の大水害にも耐えました。特に昭和28年の大水害では、阿蘇山の噴火に伴う泥流が流れ込みましたが、堤防の修復が行われ、今日までその機能を保っています。
昭和28年の西日本水害の際、堤防は破壊されましたが、復旧工事が行われ、現在の姿を取り戻しました。馬場楠堰災害復旧記念碑には、災害の記録と復旧の経緯が刻まれており、後世に伝えられるべき重要な歴史的遺産となっています。