通潤橋は、熊本県上益城郡山都町にある石造単アーチ橋で、2023年(令和5年)9月25日に、橋やその他の土木構造物としては全国初の国宝に指定されました。
通潤橋は、江戸時代の嘉永7年(1854年)に、阿蘇外輪山南側に位置する五老ヶ滝川(緑川水系)の谷に架けられた水路橋です。この橋は、水利に乏しかった白糸台地に水を供給するための通潤用水上井手(うわいで)水路の一部として建設されました。架設当初は「吹上台目鑑橋」と呼ばれていましたが、後に肥後藩の藩校・時習館の教導師であった真野源之助によって、周易の「損卦」に基づく「通潤橋」という名前が付けられました。
通潤橋は、石造の単アーチ橋で、橋の長さは78メートル、幅員6.3メートル、高さは20メートル以上、アーチの支間は28メートルと、日本国内の江戸時代に建造された石橋の中で最も大きいものの一つです。また、橋の上部には3本の石管が通っており、これが水を運ぶための重要な機構です。肥後地方の石工技術の高さを示す歴史的建造物として、2023年には国宝に指定されました。
通潤橋の中央部分には放水口があり、観光シーズン中には15分程度の放水が行われることがあります。この放水の目的は、石管内部に溜まった泥や砂を除去するためですが、その壮大な放水風景は観光客にとって大きな魅力の一つです。
通潤橋が建設された白糸台地は、阿蘇山の火山灰が積もってできた土地で、水を蓄えることが難しい地形でした。このため、農業においても水不足が深刻な問題となっていました。地元の惣庄屋であった布田保之助(ふたやすのすけ)は、これに対処するため、通潤橋を含む用水路の建設計画を立案し、地域社会とともに実現させました。
通潤橋の建設は、1852年(嘉永5年)12月に開始され、約1年8ヶ月後の1854年(嘉永7年・安政元年)8月に完成しました。建設には地元の人々だけでなく、熊本八代の種山村に住む石工技術者集団「種山石工」も協力し、阿蘇地方特有の石を使用して完成しました。
工事の最後には、布田保之助が橋の中央で白装束をまとい、石工頭は切腹用の短刀を懐にして木枠を外す作業を見守ったという逸話が残っています。このようにして完成した通潤橋は、その後の地域の発展に大きく寄与しました。
通潤橋は、水を高台にある白糸台地に運ぶため、逆サイフォンの原理を利用しています。この技術は、19世紀の日本においては画期的で、石管の継ぎ目を漆喰で密封することで漏水を防ぎ、水を高い場所へと押し上げることに成功しました。この技術は「吹上樋」と呼ばれ、通潤橋の最も重要な要素の一つです。
通潤橋は、日本における石工技術の集大成ともいえる存在であり、全国的に見ても非常に高い技術力を誇っています。肥後地方の石工たちが生み出したこの技術は、遠く鹿児島や東京などにも影響を与え、多くの石橋建設に貢献しました。
通潤橋の歴史や技術について詳しく知りたい方には、「通潤橋史料館」がおすすめです。この史料館では、通潤橋のジオラマや映像資料が展示されており、来館者は橋の歴史をより深く理解することができます。史料館は、2024年1月13日に「通潤橋ミエルテラス」としてリニューアルオープンし、観光拠点として営業を続けています。
通潤橋へは、熊本桜町バスターミナルから熊本バスM3-2系統・通潤山荘行で約1時間半、通潤橋前停留所下車徒歩5分です。徒歩圏内には他にも多くの観光スポットが点在しており、自然豊かな環境の中で、歴史的な石橋を堪能できます。
通潤橋は、2016年4月14日に発生した熊本地震で亀裂が入り、一部で水漏れが発生しました。その後、修復作業が進められましたが、2018年5月の豪雨でも石垣の一部が崩落し、修復作業はさらに延長されました。
通潤橋は、その美しい石造りのアーチと高度な技術によって、日本の歴史に刻まれた重要な土木遺産です。2023年には国宝にも指定され、観光地としても多くの人々を引きつけています。熊本県を訪れる際は、ぜひ通潤橋の放水を体感し、その歴史と技術の素晴らしさに触れてみてください。