鞠智城は、熊本県山鹿市と菊池市にまたがる台地に築かれた古代山城です。城跡は2004年2月27日に国の史跡「鞠智城跡」に指定されました。歴史的には、7世紀から10世紀にかけて約300年存続し、軍事的な要所として重要な役割を果たしました。
『続日本紀』によると、鞠智城は文武天皇2年(698年)に修復された記録がありますが、正確な築城年は不明です。発掘調査の結果、7世紀後半から10世紀中頃まで存続していたことが確認されており、白村江の戦い後、大和朝廷が防衛拠点として築いた城の一つと考えられています。特に大宰府、大野城、基肄城と連動して北九州の防衛に寄与しました。
鞠智城は標高約90~171メートルの米原台地に位置し、周囲の城壁の長さは約3.5キロメートル、城の面積は約55ヘクタールに及びます。また、城の南側は交通の要衝に位置し、古代官道が通っていたと推定されています。鞠智城は大宰府の南約62キロメートルに位置し、有明海からの侵攻に備えるための軍事拠点として重要でした。
発掘調査では、鞠智城からは国内の古代山城では唯一確認された八角形の建物跡2棟や、3か所の城門、土塁、水門、貯水池などの遺構が見つかっています。特に、八角形建物跡や銅造菩薩立像の出土は、百済からの亡命者が城の建設に関わった可能性を示唆しています。
鞠智城は築城当初、大宰府と連携しながら北九州の防衛拠点としての役割を果たしました。特に大野城や基肄城とともに軍事的な要所であり、兵站基地としての機能も持っていたと考えられます。修復後は、軍事施設だけでなく、食料備蓄や南九州の統治拠点としての機能も持ち始めました。7世紀末には、律令制の導入に伴い、肥後北部の行政拠点としても機能するように改修されたとされています。
鞠智城は8世紀後半以降、軍事拠点から物資の貯蔵施設へとその役割を変えていきました。特に多くの倉庫が立ち並ぶ施設へと変化し、最終的にはこの物資貯蔵機能に特化した形で終焉を迎えました。
鞠智城の建設背景には、白村江の戦い(663年)が関係しています。この戦いで倭国(日本)は、百済復興を目指して唐・新羅連合軍に大敗し、その後防衛体制を強化しました。天智天皇は各地に防人や烽(とぶひ)を配備し、筑紫国に水城や大野城、基肄城を築き、さらに長門国、対馬国、讃岐国などにも城を建設しました。鞠智城もこの一連の防衛施設の一環として建設されたと考えられます。
1937年(昭和12年)に坂本経堯が発表した「鞠智城址に擬せられる米原遺跡に就いて」が、鞠智城研究の始まりです。その後、1967年から2010年にかけて32回にわたる発掘調査が実施され、さまざまな遺構が発見されました。これにより、鞠智城が北九州の防衛だけでなく、行政拠点や物資貯蔵拠点としても機能していたことが明らかになりました。
現在、鞠智城跡は「歴史公園鞠智城・温故創生館」として整備されており、八角形の鼓楼や米倉、兵舎、板倉などが復元されています。これらの施設は一般に公開されており、訪れる人々が古代の城郭文化を体験できるようになっています。また、2011年には第2回古代山城サミットが鞠智城で開催され、さらなる注目を集めています。鞠智城のイメージキャラクター「ころう君」も、地域の魅力発信に貢献しています。
鞠智城へのアクセスは、熊本桜町バスターミナルから熊本電鉄バスで「菊池温泉・市民広場前」まで行き、九州産交バスに乗り換え「立徳」で下車、徒歩約21分です。また、九州自動車道の植木インターチェンジからは車で約16キロメートルです。
鞠智城は2017年4月6日に「続日本100名城」に選定され、その歴史的価値が改めて認識されています。熊本県は「百年の礎を築く」というテーマのもと、歴史・文化の継承と発信に力を入れており、鞠智城の調査研究や保存活動が積極的に行われています。
鞠智城はその歴史的・文化的な価値を次世代に伝えるために、さらなる整備と保存が続けられています。熊本県はシンポジウムや展示会を通じて調査成果を広く発信し、国内外からの観光客を迎え入れる体制を強化しています。歴史の教訓とともに、未来へと繋がる文化財として、鞠智城の重要性は今後ますます高まっていくことでしょう。