六殿神社は、熊本県熊本市南区に鎮座する神社です。長寿寺(木原不動)と同じく雁回山(木原山)に位置し、旧社格は郷社です。六殿神社の起源は治承2年(1178年)に遡り、平重盛が武蔵の六孫王権現を勧請したことから始まります。かつて守富荘を治めていた木原氏の氏神として崇敬されていました。
10月9日の大祭には、古式豊かな神楽と流鏑馬(やぶさめ)が奉納され、神楽は肥後神楽の一つとして「木原神楽」とも呼ばれています。現在、木原神楽保存会によって子ども神楽として伝承され、保護されています。
国指定重要文化財の楼門は、天文18年(1549年)に宇土城主・名和氏によって建てられました。この楼門は、屋根が入母屋造のかやぶきで、室町時代の典型的な建築様式を示しています。加藤清正も慶長5年(1600年)に楼門が無事であることを確認し、その由緒を守るために「当神社に対する軍勢の乱暴、放火、竹木伐採を禁じる」との制札を境内に建てさせました。
昭和61年には天皇在位60周年を記念し、参道入口に大鳥居が建立されました。
六殿神社は、1178年(治承2年)に平清盛の子である平重盛が、自身の祈願所であった武蔵国の六孫王大権現を勧請したことに始まります。また、木原山に城を築いた源為朝(鎮西八郎)の創建説や、平安末期に当地を治めていた木原氏の創建説も存在しています。
六殿神社の楼門は、1907年(明治40年)に熊本県下で最初に国の重要文化財に指定されました。楼門は三間一戸の入母屋造り、茅葺き、重層の門であり、その建築技術は室町時代の典型的な特徴を示しています。飛騨国より名番匠の甚五左衛門が招かれ、釘を使わない「釘無しの門」とも称されるほどの巧妙な技法で建造されています。
天正16年(1589年)、キリシタン大名の小西行長によって宇土城城主となり、領内の社寺を焼討しましたが、六殿神社は勅願社としてその神域を尊び、火難を免れました。その後、加藤清正が慶長5年(1600年)に宇土城攻略の戦捷祈願を行い、神領を寄進し社殿を改修しました。細川歴代藩主も尊崇を厚くし、現在も奉納の絵馬や安泰祈願大灯籠が現存しています。
六殿神社では、10月9日に例祭が行われます。この日は流鏑馬や神楽などの奉納があり、地域住民や観光客でにぎわいます。
六殿神社の楼門は、1907年(明治40年)に熊本県下で最も早く国の重要文化財に指定されました。この楼門は、三間一戸の入母屋造りで茅葺きの二階建て構造です。建物の高さは7.8メートルあり、腰には縁が巡らされています。複雑な軒廻りや支輪の曲線、組入天井など、中世の社寺建築の特徴を具備し、足利末期建築の特徴を持つ優美な建物です。
古代の社寺建築の和様を基調としつつも、木割が小さく繊細で華麗な印象を与える点が特徴です。昭和4年(1929年)には国費をもって修理され、現在に至っています。
宿大神社は、社殿の向かって右に位置し、子授け安産、母性の守り神として安徳天皇の生母である建札門院徳子を祀っています。
大王宮は、鳥居前に平重盛命とその父・平清盛を祀っています。
中王宮は、社殿向かって左の奥に位置し、初代から第3代までの大宮司を祀っています。御祭神は紀州宇田森から当社の神職となった平氏の一族、平江姓の始祖とされています。
代官宮の御祭神は、創建時に社領を附せられた地区の初代代官であり、伊津野、佐藤姓の祖神です。
菅原神社は、菅原道真を祀る学問の神として崇敬されています。一方、鉾神社は、医療の神であり疫病退散・病気平癒の御神徳がある八千矛神と少彦名大神を祀っています。
雁回山(木原山)は標高314メートルの丘陵地帯で、富合平野に広がっています。この山は、源平の昔からの史跡や伝説が多く残されています。源為朝は平安時代末期の武将であり、その剛弓におそれた雁が山を迂回して飛ぶようになったという伝説があります。このことから、山は「雁回山」と呼ばれるようになりました。
桜町バスターミナルから熊本バス「木原不動前」で下車し、徒歩約15分です。バスは1日約4本運行されています。また、JR熊本駅からJR「宇土」駅(東口)にて熊本バス「木原不動前」下車後、徒歩約15分です。
九州自動車道城南スマートインターから車で約20分で到着します。