新開大神宮は、熊本県熊本市南区内田町に位置する神社で、その歴史は古く、旧社格は郷社です。地元の人々から深く信仰されており、その伝統や祭神についてさまざまな興味深いエピソードが語り継がれています。ここでは新開大神宮の由緒や祭神、境内の見どころについて詳しくご紹介します。
新開大神宮の創建は文安元年(1444年)に遡ります。伊勢神宮を熱心に信仰していた太田黒孫七郎が、天照大神の託宣を受け、翌年の文安2年(1445年)に伊勢神宮を当地に勧請し、創建したと伝えられています。
その後、天正年間(1573年 - 1592年)には佐々成政によって社殿が焼かれるという苦難に見舞われましたが、加藤清正により再興され、厚く崇拝されるようになりました。さらに細川家の時代には手厚い保護を受け、神社としての地位を確立していきました。
幕末の思想家である林桜園はこの神宮を深く崇敬し、宮部鼎蔵をはじめとする桜園の門下生たちも同様に信仰を寄せました。また、敬神党の首領である太田黒伴雄は祠官であった太田黒伊勢守に入婿し、神主として奉職しました。この神社は、1876年の「神風連の乱」(敬神党の乱)の挙兵に際し、宇気比(神への誓いの儀式)が行われた場所でもあります。
新開大神宮の主祭神は以下の2柱です。
天照大神は、日本神話における太陽の女神であり、皇室の祖神として知られています。
豊受大神は、食物や豊穣を司る神様であり、天照大神と共に祀られています。
新開大神宮の境内には多くの見どころがあります。その歴史や特徴的な建物、自然が訪れる人々を魅了します。
みそぎの井戸は、太田黒伴雄が宇気比の際に身を清めた井戸です。この井戸は初代宮司が掘り、創建当初(1445年頃)は毎日海水を使って禊(みそぎ)を行っていましたが、干拓により海が遠くなったため、井戸を掘ってここで禊を行うようになりました。潮の満ち干きの影響を受けていたため、井戸の水位も満干を繰り返していたそうです。
本殿は佐々成政によって焼かれた後、慶長年間(1596年から1615年)に加藤清正公によって再建されました。現在の本殿は明治十四年(1881年)に建築されたものです。
拝殿は文久二年(1862年)に建てられた建物で、昭和二十二年(1947年)に屋根替えが行われ、その後平成十二年に窓枠などの修繕が行われました。
天満宮は、学問の神様として知られる菅原道真をお祭りした神社です。道真は延喜三年(903年)に不遇の死を遂げた後、その祟りから都では疫病や火災が相次ぎました。そのため、地方でもその崇りを恐れて天満宮が各地に建てられました。新開大神宮の天満宮もその流れで建立されたと考えられていますが、今では学問の神様として広く信仰されています。
さざれ石は、地下の大小の石が雨水によって溶解された石灰石により固まり、徐々に大きく成長したものです。「君が代」に歌われる「巌(いわお)」を象徴し、悠久の時を経て苔がむすまで成長するその姿は、我が国の永遠の繁栄を象徴しています。このさざれ石は皇紀二千六百六十年(西暦2000年)の天皇誕生日を奉祝して当大神宮に献納されました。
手水舎は、平成十八年に奉祝皇孫親王ご生誕と神風連烈士130年祭を記念して、龍吐水が有志によって奉納されました。
手水の作法
猿田彦大神の石碑は、ニニギノミコトが高千穂に天孫降臨された際に道案内を務めた神様で、新開大神宮に祀られている神様もこの神様に案内されてお鎮まりになったとされています。また、旅の安全を祈願するために建立されたもので、「みちひらき」の神様として物事の始まりを導いてくれる神様です。
すもう場では、秋の大祭時に小学生による奉納相撲が行われます。伝統的な行事として地元の子供たちに受け継がれています。
くすの木は、創建当初からこの地にあったとされる樹齢570年を超える古木で、熊本市保存樹木(5本)に指定されています。このくすの木は新開大神宮の歴史と共に生き続け、その威容を今に伝えています。
神風連の乱(しんぷうれんのらん)は、1876年(明治9年)に熊本区(現在の熊本市)で起こった、明治政府に対する士族の反乱です。別名「敬神党の乱(けいしんとうのらん)」とも呼ばれています。
この反乱は、1876年10月24日に旧肥後藩の士族である太田黒伴雄、加屋霽堅、斎藤求三郎ら約170名によって結成された「敬神党」によって、廃刀令への反対運動として行われました。この敬神党が反対派から「神風連」と戯称されていたため、「神風連の乱」という名前が広く知られています。
新開大神宮は、熊本市における歴史的な神社で、その由緒や祭神、境内の見どころは深い歴史と伝統を感じさせます。天照大神と豊受大神を祀り、多くの人々に信仰されてきた新開大神宮は、地域の象徴的な存在であり、訪れる人々に古くからの伝統や神秘的な雰囲気を伝え続けています。