三賢堂は、熊本県熊本市西区島崎にある円形建築物で、1936年(昭和11年)に熊本出身の政治家・安達謙蔵により建てられました。この建物は、熊本市民の精神修養のための施設として設立され、堂内には「肥後の三賢人」の像が安置されています。肥後の三賢人とは、鎌倉時代から江戸時代にかけて熊本に大きな影響を与えた菊池武時、加藤清正、細川重賢の三人です。
彫刻家の田島亀彦、朝倉文夫、長谷秀雄によってそれぞれの像が制作され、堂内に設置されています。建物内には一対の螺旋階段が配され、訪れる人々を迎え入れます。また、安達謙蔵は三賢堂を建立する前の1933年(昭和8年)には、横浜市に同じ目的で八聖殿(現・横浜市八聖殿郷土資料館)を設置しています。
三賢堂は、熊本市出身の政治家・安達謙蔵が、市民の精神修養の場として建立したもので、建物自体は鉄筋コンクリート造りの円筒二重層構造です。安達謙蔵は、堂の敷地内に自らの旧居「源泉荘」と書斎「備於斉(びおうさい)」も設置し、熊本市民のために利用できる施設として開放しています。現在、三賢堂や源泉荘、備於斉は熊本市が管理しており、熊本市民であれば許可申請のもと有料で利用することが可能です。
三賢堂には、「肥後の三賢人」として名高い歴史上の人物、菊池武時、加藤清正、細川重賢の三座像が安置されています。これらの像は、それぞれ著名な彫刻家によって制作されました。以下は三賢人の詳細です。
菊池武時は、鎌倉時代末期の武将で、菊池氏の第12代当主です。幼名は正龍丸。元弘の乱で鎮西探題に対抗して挙兵し、戦死しました。その後、彼の功績は高く評価され、熊本県内には彼を祀る神社が複数存在しています。明治天皇からは、没後に従一位を贈られています。
加藤清正は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将であり、肥後国熊本藩の初代藩主です。治水工事や新田開発で熊本の発展に貢献し、熊本の人々から「清正公さん」として親しまれています。彼の治績は今でも熊本の地に深く根付いています。
細川重賢は、江戸時代中期の熊本藩6代藩主で、「肥後の鳳凰」と称される名君です。藩政改革を進め、熊本藩の財政再建や教育の振興に力を注ぎました。彼の改革は熊本藩の基礎を築き、後の時代にもその影響を与えました。
三賢堂の敷地内には、安達謙蔵の旧居である「源泉荘」と、彼の書斎であった「備於斉」があります。これらの建物は、安達が熊本での生活の拠点として使用していたもので、彼の精神修養の場としても重要な役割を果たしました。また、三賢堂とその周辺の庭園「釣耕園」は一体となっており、静かな自然の中で心を整える場所として広く知られています。
三賢堂は、熊本市民のために設立された精神修養の場であり、堂内には肥後の三賢人である菊池武時、加藤清正、細川重賢の像が安置されています。この三人は、熊本の歴史に大きな影響を与えた武将であり、その精神を市民に伝えるために三賢堂が設立されました。三賢堂の敷地には、豊かな自然が広がり、訪れる人々は静かな環境の中で心を整えることができます。