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桜山神社(熊本県)

(さくらやま じんじゃ)

桜山神社は、熊本県熊本市中央区に鎮座する神社で、天照大御神・豊受大神を主祭神としています。神社には、明治維新で活躍した肥後勤王党の志士や、神風連の烈士らが祀られています。また、境内には「神風連資料館」があります。

神社の歴史

1885年(明治18年)、明治維新で活躍した肥後勤王党と神風連の遺族が飽田郡宇留毛村(現熊本市中央区黒髪)に「誠忠の碑」と「123士の碑」を建立し、桜山同志会を組織したことが桜山神社の起こりです。その後、1913年(大正2年)に桜山祠堂(さくらやましどう)を建設し、1948年(昭和23年)には桜山神社へ改称されました。

1978年(昭和53年)には熊本在住作家で思想家の荒木精之が境内に財団法人神風連資料館を建て、理事長となりました。また、神域には林桜園の墓や宮部鼎蔵の歌碑、太田黒伴雄、加屋霽堅以下123士の墓、そして荒木精之の顕彰碑などもあります。

神風連資料館

1978年(昭和53年)11月、桜山神社の境内に造営された神風連資料館は、神風連の変に関連する資料が展示されています。神風連の変は1876年(明治9年)に熊本市で起こった士族反乱であり、神風連資料館では烈士たちや肥後勤王党関係の武具・絵画・遺墨・遺品など約500点が展示されています。なお、資料館は2024年8月31日をもって閉館予定であり、展示されている資料は熊本博物館に寄贈される予定です。

神風連の変と桜山神社

神風連資料館は、神風連の変に関連する資料が展示されており、神風連の変で敗れた烈士たちの霊が眠る桜山神社の境内に位置しています。

神風連の変とは

神風連の変は、1876年(明治9年)10月24日、西南戦争の3ヶ月前に明治政府の急速な欧化政策に憤った熊本の尊王攘夷の烈士たち約170名が挙兵し、熊本鎮台を襲撃した士族反乱です。熊本鎮台や軍官の要人を襲撃しましたが、近代的な火砲の前に一夜にして敗れ、その多くが戦死、自刃しました。

展示内容

神風連資料館には、彼らが決起に至るまでの道筋や思想を支えた国学者・林桜園の資料、神風連の烈士たちの遺品が展示されています。また、熊本の尊王攘夷運動に大きく関わった肥後勤皇党の宮部鼎蔵、河上彦斎らの資料もあります。さらに、彼らの思想の影響を受けた三島由紀夫等の資料も展示されています。

桜山神社の境内には、神風連の首領・太田黒伴雄以下123名の墓所、林桜園、宮部鼎蔵、河上彦斎の墓所もあります。

神風連の乱の概要

神風連の乱(しんぷうれんのらん)は、1876年(明治9年)に熊本市で起こった明治政府に対する士族反乱であり、敬神党の乱(けいしんとうのらん)とも呼ばれています。

挙兵の経緯

1876年10月24日、旧肥後藩の士族であった太田黒伴雄、加屋霽堅、斎藤求三郎ら約170名によって結成された「敬神党」が廃刀令への反対運動として挙兵しました。この敬神党は反対派から「神風連」と戯称されていたため、「神風連の乱」と呼ばれています。

幕末の肥後藩と士族の動き

肥後藩では教育方針をめぐり三大派閥に分かれており、藩校での朱子学教育を中心とする学校党、横井小楠らが提唱した教育と政治の結びつきを重視する実学党、そして林桜園を祖とする国学・神道を重視した勤皇党が存在しました。敬神党は、この勤皇党の中で明治政府に強い不満を抱いていた構成員によって結成されました。

戦いの詳細

1876年10月24日深夜、敬神党は熊本鎮台司令官・種田政明宅や熊本県令・安岡良亮宅を襲撃し、種田・安岡ら計4名を殺害しました。その後、熊本鎮台(熊本城内)を襲撃し、城内にいた兵士らを次々と殺害し砲兵営を制圧しましたが、翌朝には政府軍側の将校であった児玉源太郎らが駆けつけ、本格的な反撃を受けました。加屋・斎藤らは銃撃を受け死亡し、太田黒も重傷を負ったのち自刃しました。指導者を失った敬神党は敗北し、多くが自刃することとなりました。

敬神党側の死者・自刃者は124名、残りの約50名は捕縛され一部は斬首されました。政府軍側の死者は約60名、負傷者は約200名に及びました。

この乱は、秩禄処分や廃刀令に対する士族の不満が爆発した一連の士族反乱の一つであり、連動して同年に秋月の乱や萩の乱が起こり、翌年には西南戦争へとつながっていきました。

桜山神社の現在

熊本市中央区黒髪には、神風連の烈士らを合祀する桜山神社が鎮座しています。境内には神風連資料館をはじめ、林桜園、宮部鼎蔵、河上彦斎、神風連の烈士123士の墓などがあり、歴史の痕跡を今に伝えています。

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桜山神社(熊本県)
(さくらやま じんじゃ)

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