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八代城

(やつしろじょう)

八代城は、熊本県八代市(旧・肥後国八代郡)に位置する城です。この城は江戸時代初期に築かれ、球磨川の河口にあり、当初は「松江城」とも呼ばれていました。この記事では、熊本藩家老加藤正方によって築かれ、その後肥後細川家の家老である松井氏が居住していた城について説明します。なお、キリシタン大名小西行長が居城としていた「麦島城」や、名和氏や相良氏の城塞群である「古麓城」についても関連する情報として触れます。

八代城の概要

八代城は、江戸時代に加藤正方によって築かれた城であり、熊本県史跡にも指定されています。この城は、南北朝時代の「古麓城」、安土桃山時代の「麦島城」と合わせて、平成26年(2014年)に「八代城跡群」として国の史跡に指定されました。また、2017年(平成29年)には「続日本100名城」にも選定されています。

前史:八代地方の城塞群

八代地方には中世以降、多くの城塞が築かれてきました。これらの城塞には、松江城以前に存在した「古麓城」や「麦島城」も含まれています。それぞれの城は、築かれた場所の地名に由来して名付けられており、松江にあった城が「松江城」、古麓にあった城が「古麓城」、麦島にあった城が「麦島城」と呼ばれています。

古麓城について

南北朝時代から戦国時代にかけての城塞群

古麓城(ふるふもとじょう)は、八代市古麓町の山岳地帯にあった城で、南朝方の重要な拠点でした。南朝時代には「征西府」が置かれ、その名残として懐良親王の墓が現存しています。この城は、名和氏が築いた五つの城と、相良氏が築いた二つの城からなる複数の山城から構成されていました。戦国時代には相良氏が支配しており、相良義滋の居城であった「鷹峯城」もその一つです。

麦島城について

小西行長の築いた水城

麦島城は、宇土城主であった小西行長が家臣の小西行重に命じて築かせた城です。この城は球磨川の三角州にあり、海上交通の要所として発展しました。水城として知られ、船で海から直接出入りができたと言われています。麦島城は石垣造りで、豊臣秀吉の直轄地でもありました。しかし、関ヶ原の戦いで小西行長が敗れると、麦島城もその役割を終え、廃城となりました。

松江城の建設

麦島城が倒壊した後、加藤忠広は新たな城を建設することを決定し、江戸幕府の許可を得て松江村に松江城を築きました。この城は元和8年(1622年)に完成し、熊本藩の南の守りとして重要な役割を果たしました。江戸時代の一国一城令にもかかわらず、松江城は熊本城と共に熊本藩内での二城体制が認められた特例的な城でした。

松江城の歴史

松江城は、その後細川忠利の治世に引き継がれ、細川家が熊本藩主となった後も重要な城として存続しました。しかし、寛永9年(1632年)に細川忠広が改易されると、城主は松井氏へと引き継がれ、以後松井氏が明治3年(1870年)まで八代城を支配しました。

干拓事業と八代の発展

松江城の城主であった松井興長は、城の周辺地域で干拓事業を進め、八代市の発展に大きく寄与しました。干拓によって広がった土地には新しい村が形成され、これが現在の八代市の基盤となりました。

八代城の焼失と再建

寛文12年(1672年)、八代城は落雷によって焼失しましたが、翌年に再建されました。ただし、大天守は再建されず、北東隅の三層櫓が最も高い建物となりました。再建後も八代城は熊本藩の重要な城として存在し続けましたが、明治3年(1870年)の廃城令により廃城となりました。

現在の八代城

現在、八代城跡は史跡として保存されており、観光名所としても人気があります。石垣や一部の櫓跡が残されており、城の歴史を感じることができる場所です。さらに、2017年には「続日本100名城」に選定され、多くの歴史ファンや観光客が訪れるスポットとなっています。

まとめ

八代城は、熊本藩の歴史と共に歩んできた城であり、その歴史は地域の発展に深く関わっています。江戸時代から明治時代にかけての変遷を経て、現在は国の史跡として保護され、多くの人々にその歴史的価値が伝えられています。

Information

名称
八代城
(やつしろじょう)

八代・人吉・球磨

熊本県