五家荘は、熊本県八代市(かつての肥後国八代郡)東部に位置する、久連子(くれこ)、椎原(しいばる)、仁田尾(にたお)、葉木(はぎ)、樅木(もみのき)の5地域の総称です。これらの地域は、豊かな自然に囲まれた山間の地であり、古くから秘境としてその名を知られています。五家荘は、平家の落人伝説や、独自の歴史、文化を持ち、観光地としても注目されています。
五家荘は古来より、九州山地の西部に位置し、川辺川の水源となる山林地域に属しています。古くから人々は河岸の段丘や斜面に小さな集落を築き、木地師として木器の製造や、蕎麦、稗(ひえ)などの焼畑農業を行っていました。『肥後国誌』によれば、五家荘の存在が外部に初めて知られたのは慶安3年(1650年)とされていますが、実際には戦国時代には既に阿蘇惟豊に仕えていた者たちが五家荘で活動していたことがわかっています。
五家荘は、平家の落人伝説で知られており、壇ノ浦の戦いの後、平清経が九州に逃れたという伝承があります。伝説によると、清経の子孫たちは五家荘の各地に散り住み、久連子には次男の近盛、椎原には長男の盛行、葉木には三男の実明が移り住んだとされています。また、別の伝承では、菅原道真の子孫たちが仁田尾・樅木を治め、緒方氏と左座氏という二大勢力が五家荘を治めていたとも伝えられています。
江戸時代には、五家荘のそれぞれの地域を地頭が治めており、村の大庄屋として任じられていました。しかし、貞享2年(1685年)、左座一族の内紛が原因で、江戸幕府は五家荘の支配を天草代官に移しました。その後、熊本藩の支配下に戻り、五家荘の住人たちは藩主に謁見することを許されましたが、農地の不足や木器の需要の減少により、住民の生活は困難を極めるようになりました。
明治維新後、五家荘は長崎県、熊本県などの管轄下に置かれ、最終的には熊本県に編入されました。昭和に入ってからは、昭和の大合併により周辺の村々と合併し、泉村が誕生しました。その後、平成の大合併により、八代市に編入され現在に至ります。昭和18年からは林道の建設が進み、交通網が整備され、外部とのアクセスが向上しました。
五家荘はその豊かな自然と独自の伝統文化が注目され、昭和57年(1982年)には九州中央山地国定公園に指定されました。この指定により、観光地としての開発も進み、訪れる観光客が増加しました。しかし、一方で人工造林地の増加による環境破壊の問題も生じており、古くからの原生林が失われつつあります。
五家荘へのアクセスは、JR九州の鹿児島本線有佐駅から九州産交バスで八農分校前行きに乗車し、終点で下車後、タクシーで約75分の移動が必要です。車を利用する場合、九州自動車道の八代インターチェンジから約62キロメートルの距離にあります。かつては五木村と五家荘を結ぶバス路線もありましたが、2019年3月に廃止されており、現在は公共交通機関での直接のアクセスは難しくなっています。
五家荘は、秘境としての風情を残しつつ、豊かな自然と平家の落人伝説などの歴史・文化を持つ地域です。交通の便が整備された一方で、環境問題や過疎化といった課題も抱えています。それでも、五家荘は自然と文化の宝庫として、訪れる人々に深い感動を与える場所であり続けています。