球磨川は、
九州地方にある熊本県南部を流れる一級河川で、日本の三大急流の一つに数えられます。この川は人吉盆地を貫き、川辺川などの支流を合わせて八代平野を経由し、最終的に八代海(不知火海)に注ぎます。熊本県内で最大の河川であり、急流として知られる球磨川は、最上川や富士川と並ぶ存在です。また、日本二十五勝にも選ばれるほど美しい風景を持つ川でもあります。
かつて球磨川は、その急流と巨岩が多いことから、水運に利用するのが非常に困難でした。しかし、1662年(寛文2年)、相良氏22代当主である相良頼喬の叔父、林正盛が私財を投じて開削事業を開始し、1665年(寛文5年)には川舟の航行が可能となりました。この改修により、球磨川は外部との交通・物流の幹線として使用され、参勤交代のルートとしても重要な役割を果たしました。このように、球磨川は地域の発展に大きく貢献してきました。
しかし、時代が進むにつれて、肥薩線の開業や道路整備、林業の衰退、ダム建設などにより、球磨川の水運は縮小しました。現在では、観光用の川下り船が運航されるのみとなっています。
球磨川の水は、流域内の約14,000ヘクタールに及ぶ耕地の農業用水として利用されているほか、八代平野の臨海工業地帯では、製紙・パルプや金属加工製造業などの工業用水としても重要です。また、流域内に点在する20箇所の水力発電施設で電力を供給するためにも利用されています。
球磨川が八代海に注ぐ河口付近には、1,000ヘクタールを超える干潟が広がっています。この干潟は、日本の重要湿地500にも選ばれており、年間を通じて90種類以上の野鳥が飛来します。これにより、バードウォッチング愛好家たちの間でも有名なスポットとなっており、重要野鳥生息地 (IBA) にも指定されています。
球磨川の源流は、球磨郡水上村にある石楠越(標高1,391m)および水上越(標高1,458m)です。人吉盆地を西へ流れ、田園地帯を貫流した後、九州山地の狭隘な谷を流れ抜け、八代平野へと到達します。このように、川の地形は変化に富み、急流から穏やかな流れまで多様な顔を持っています。
球磨川の名前の由来については、はっきりとした記録は残っていません。明治初期には「求麻」「求磨」「球磨」と様々な表記がされていました。1772年に著された『肥後日誌』には、「九万の支流を持つ川」や「川上の球磨郡から流れて来た川」といった説が記載されており、それらが名前の由来であるとされています。
球磨川はその急流ゆえに度々災害を引き起こしてきました。特に1669年から2020年にかけて、大規模な洪水や浸水被害が多数発生しています。たとえば、1755年の山津波では、堰止湖が決壊し、約500人の死者が出るほどの甚大な被害が発生しました。また、1965年の球磨川大水害や2020年の令和2年7月豪雨では、広範囲にわたる浸水被害が報告され、多くの命が失われました。
2020年7月の豪雨では、球磨川が氾濫し、特別養護老人ホーム「千寿園」が水没、入所者14名が死亡するなどの悲劇が起こりました。この豪雨災害は、熊本県内で66名の死者を出し、甚大な被害をもたらしました。特に、人吉市や八代市を中心に広がった浸水は、地域全体に深刻な影響を及ぼしました。
球磨川における治水の問題は、2021年現在でも議論が続いています。球磨川は全国に109ある一級河川の中で、唯一整備計画が未策定の状態にあります。これは、地元住民が「ダム無しの治水」を支持した結果です。しかし、令和2年の豪雨災害後には、ダムによらない治水策の限界が指摘されており、今後の対策について国や自治体との協議が続けられています。
球磨川は、熊本県の自然と歴史に深く根ざした重要な河川です。急流としての美しさだけでなく、地域の交通や産業に寄与し続ける一方で、数多くの災害を引き起こしてきました。特に近年では、令和2年の豪雨災害を契機に、ダムに依存しない治水策の限界が議論されています。これからも球磨川の自然と共存しながら、地域の発展と安全を両立させるための取り組みが求められます。