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人吉城

(ひとよしじょう)

人吉城は、熊本県人吉市に位置する日本の城で、鎌倉時代から相良氏の居城として長い歴史を持つ平山城です。相良氏が地頭として人吉荘に赴任して以来、35代・670年にわたって在城し、江戸時代には人吉藩の藩庁として機能していました。現在は国の史跡に指定されており、「人吉城公園」として整備されています。

立地と構造

人吉城は、球磨川とその支流である胸川の合流点に位置し、自然の地形を巧みに利用した梯郭式の平山城です。北側と西側は川を天然の堀とし、東側と南側は山の斜面や崖を城壁としています。本丸は城の中心に位置しますが、天守はなく、代わりに護摩堂が建てられていました。さらに、本丸の南側には二の丸と三の丸があり、丘陵上に広がる城郭が形成されていました。

武者返し石垣

人吉城の特徴のひとつに、「武者返し」と呼ばれる独特の石垣があります。この石垣はヨーロッパの築城技術である「槹出工法」を取り入れたもので、城壁の最上部に平らな石が突き出しています。これにより、敵が城壁を越えるのを防ぎ、また上から敵を攻撃するための工夫が施されています。武者返しは特に球磨川に面した部分が最も大きく、高く作られており、城を守るための重要な役割を果たしていました。

歴史・沿革

鎌倉時代

人吉城の始まりは鎌倉時代にさかのぼります。遠江国相良荘の国人であった相良長頼が、源頼朝の命を受け、1205年に肥後国人吉荘の地頭に任じられました。当時、人吉荘は矢瀬主馬佑が支配していましたが、長頼はこれを打ち破り、人吉城の基礎を築きました。この際に発見された三日月型の石にちなみ、城の別名として「繊月城」「三日月城」とも呼ばれるようになりました。

戦国時代と安土桃山時代

戦国時代には、相良氏が球磨地方を統一しましたが、家督を巡る内紛により1526年に日向国の北原氏によって人吉城が包囲されました。これが人吉城が他家に攻められた唯一の記録です。その後、相良氏は城の大改修を行い、城郭の近代化が進められました。

江戸時代

江戸時代に入ると、人吉城は人吉藩の藩庁として機能しましたが、1802年には火災により城内の多くが焼失しました。1862年には再び「寅助火事」と呼ばれる大火に見舞われ、城は全焼しましたが、いくつかの建物は再建されました。

明治時代以降

明治4年(1871年)の廃藩置県に伴い人吉城は廃城となり、その後の西南戦争では西郷隆盛軍の拠点として使用されましたが、戦闘により再建された建物も焼失しました。1961年には国の史跡に指定され、1989年には隅櫓が復元されました。1993年には大手門脇多聞櫓と続塀が復元され、現在では歴史的価値を持つ城として多くの人々に親しまれています。

観光とアクセス情報

人吉城公園

現在の人吉城は「人吉城公園」として整備され、櫓や塀が復元されています。また、城址の西側には相良護国神社が鎮座し、訪れる人々に歴史の重みを感じさせる場所となっています。さらに、公園内には「人吉城歴史館」があり、城の歴史や文化を紹介する展示が行われています。

交通アクセス

人吉城へのアクセスは、JR九州肥薩線人吉駅から九州産交バスの「頭地ゆき」や「湯前駅行き」などに乗車し、「五日町」で下車して徒歩9分(約740m)です。また、「じゅぐりっと号」に乗車し、「新町」で下車すれば徒歩8分、「二日町」で下車すれば徒歩10分の距離にあります。車を利用する場合は、九州自動車道人吉インターチェンジからアクセス可能です。

おわりに

人吉城は、相良氏の長い歴史と共に歩んできた城であり、熊本県の重要な歴史的遺産です。自然の地形を活かした美しい城郭や、独特の「武者返し」石垣など、他の城にはない魅力が詰まっています。現在では「人吉城公園」として整備され、訪れる人々に歴史の息吹を感じさせるスポットとして人気があります。

Information

名称
人吉城
(ひとよしじょう)

八代・人吉・球磨

熊本県