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百太郎溝

(ひゃくたろう みぞ)

百太郎溝または百太郎堰(ひゃくたろうせき)は、熊本県球磨郡多良木町、あさぎり町、錦町を流れる歴史的な灌漑用水路です。この用水路は、地域の農業を支える重要な水源としての役割を果たしてきました。

百太郎堰旧樋門とその概要

百太郎溝の全長は約18kmにおよび、一説によると、宝永7年(1710年)に完成したとされています。この用水路は、古くから地域の灌漑に利用され、地元の農民たちの手によって掘削されました。

歴史的背景と工事の進展

百太郎溝は、16世紀末に最初の掘削工事が行われたと伝えられていますが、記録が少なく詳細は不明です。その後、延宝8年(1680年)に二期工事が、元禄9年(1696年)から元禄10年(1697年)にかけて三期工事が実施されました。さらに、宝永元年(1704年)から宝永2年(1705年)にかけて四期工事が行われ、宝永7年(1710年)8月20日に完成しました。五期工事は原田川以西の区間で行われましたが、未完成のままで年代も詳しくは分かっていません。

このように、百太郎溝の工事は約1世紀にわたって続けられ、総延長は19kmに達し、灌漑面積は約1,400ヘクタールに及びました。この用水路は、地域の扇状地における水田開発に大きく貢献しました。

灌漑用水路としての役割と改修

百太郎溝は、幸野溝とともに上球磨地方の水田化を推進し、地域の農業発展に重要な役割を果たしました。特に、百太郎溝は藩の援助や特別な指導者を持たず、農民たちの手によって掘り抜かれたことが特徴です。用水路の名称「百太郎」も、伝説の人柱となった百太郎に由来しています。

1957年には、市房ダム建設工事が開始され、これに関連して熊本県営の大規模な土地改良事業が着工されました。この事業の一環として、百太郎溝や幸野溝は近代的なコンクリート水路に改修され、1968年に完工しました。漏水がひどかった旧百太郎堰は、巨大な石材で作られた旧樋門が水戸神社の側に保存され、現在もその歴史を伝えています。

名称の由来 - 百太郎の伝説

百太郎溝の名称には、複数の伝承が存在します。その中でも最も有名なものは、次のような話です。

伝説の人柱 百太郎

昔、この地域では度重なる川の氾濫により、田畑が流される災害が続いていました。ある日、村人たちが神のお告げを受け、「裾に二本の線が入った着物を着た人物を人柱に立てよ」という指示を受けます。そして、その着物を着ていた人物が百太郎であったため、彼が人柱として選ばれました。百太郎が橋の柱にくくりつけられた夜、彼の声は村中に響き渡り、翌日には水害が収まったと言われています。

水神の啓示と百太郎

別の伝承では、百太郎溝の建設が進んでいた際に、たびたび堰門が流されるという難工事が続いていました。そこで、百太郎が夢枕に立った水神のお告げに従い、自ら人柱となり、堰門の下に生き埋めにされたとされています。それ以来、堰門は安全に保たれるようになりました。

技術者としての百太郎

また、別の伝説では、百太郎は技術者であり、藩の命令で溝堰の建設を指導していました。しかし、彼が設計した堰門が一夜の豪雨で流されたため、責任を負って自殺した、または自ら人柱を志願したとも伝えられています。堰門の脇にある松の巨木は、百太郎の墓標とされています。

現代の百太郎溝

現在、百太郎溝は地域の灌漑用水路としてだけでなく、歴史的な観光名所としても注目されています。水戸神社の側には旧百太郎堰の遺構が保存されており、地域の歴史を伝える貴重な存在です。

アクセス情報

百太郎溝は熊本県球磨郡多良木町、あさぎり町、錦町を流れており、車や公共交通機関でのアクセスが可能です。特に、地元の観光名所と組み合わせた訪問がおすすめです。

Information

名称
百太郎溝
(ひゃくたろう みぞ)

八代・人吉・球磨

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