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生善院

(しょうぜんいん)

猫寺

生善院は、熊本県球磨郡水上村に位置する真言宗智山派の寺院です。長い歴史を持つこの寺院は、地元では「猫寺」として親しまれ、その名は寺に伝わる猫にまつわる伝説に由来しています。山門には狛犬の代わりに「狛猫」が置かれており、訪れる人々に独特の趣を与えています。

生善院の概要

生善院の建立は寛永2年(1625年)で、相良氏第20代相良長毎(頼房)によって建てられました。特に重要なのは、国の重要文化財に指定されている観音堂です。この観音堂は江戸時代前期の建築で、須弥壇嵌板には猫の彫刻が施されています。この特徴的な猫の彫刻もまた、生善院の「猫寺」という通称の背景にあります。

観音堂の文化財的価値

生善院の観音堂は、木造の寄棟造りで茅葺(かやぶき)屋根が特徴です。全体の造りは江戸時代前期の建築様式を忠実に残しており、特に厨子(ずし)も含めて保存状態が非常に良好です。1990年に国の重要文化財に指定され、地域の歴史と文化を今に伝えています。

猫にまつわる伝説

盛誉法印と黒猫「玉垂」の物語

生善院の伝説は、かつてこの地にあった普門寺の住職であった盛誉法印(せいよほういん)にまつわる物語から始まります。天正10年(1582年)、盛誉法印は無実の罪を着せられ、相良氏によって命を奪われ、寺も火を放たれました。この悲劇の後、盛誉法印の母である玖月善女(くがつぜんにょ)は、息子の無念を晴らすため、市房神社で断食と呪詛を行いました。

その際、彼女は自らの指を噛み切って血を流し、愛猫であった黒猫「玉垂」(たまだれ)に血を与えて呪いの力を込めました。その後、玖月善女は黒猫とともに身を投げ、命を絶ったとされています。この悲劇の後、相良氏は化け猫に悩まされるようになり、ついには盛誉親子の霊を鎮めるために寺を再建することとなりました。それが現在の生善院です。

盛誉法印の霊を鎮めた生善院

盛誉法印の命日である3月16日には、相良藩が盛誉親子の霊を慰めるために寺への参拝を奨励し、藩主自らも訪れたと言われています。この行事は地域の重要な祭事となり、次第に祟りは鎮まったとされています。この伝説からもわかるように、生善院は単なる寺院としての役割を超え、地域の歴史や信仰と深く結びついています。

重要文化財としての生善院観音堂

観音堂の特徴

生善院の観音堂は、国の重要文化財に指定されています。建立は寛永2年(1625年)で、木造の建築は桁行三間(けたゆきさんげん)、梁間三間(はりまさんげん)、一重寄棟造(いちじゅうよせむねづくり)、茅葺(かやぶき)屋根という構造を持っています。また、向拝一間(こうはいひとま)を備えており、こけら葺きの屋根が寺院全体に威厳を与えています。

この観音堂は、当時の建築技術の粋を集めたものであり、保存状態が非常に良好です。そのため、国から重要文化財として認定され、地元住民や訪れる観光客にとっても重要な歴史的資産となっています。

御詠歌

生善院には、次のような御詠歌が伝わっています。
「野も過ぎて 里をも過ぎて なかやまの 寺に参るは 後の世の為」
この詠歌は、生善院を訪れることで後世にわたっての平安を願う気持ちが込められています。

生善院へのアクセス

所在地と最寄りの交通機関

生善院は、熊本県球磨郡水上村大字岩野3542にあります。最寄り駅はくま川鉄道湯前駅で、そこから徒歩20分ほどの距離に位置しています。自然豊かな環境にあり、訪れる人々に静かで落ち着いた雰囲気を提供しています。

また、湯前駅までは球磨川沿いの美しい風景を楽しみながらアクセスすることができ、観光客にとっても魅力的な散策ルートとなっています。

まとめ

生善院は、その伝説的な背景とともに、地域の歴史と文化を色濃く残している貴重な寺院です。猫寺としてのユニークな魅力を持ちながら、国指定の重要文化財としても高い価値があり、訪れる人々に深い印象を与えます。ぜひ、水上村を訪れた際には、生善院の歴史と伝説に触れてみてください。

Information

名称
生善院
(しょうぜんいん)

八代・人吉・球磨

熊本県