霊台橋は、熊本県下益城郡美里町を流れる緑川に架かる江戸時代末期の石橋です。別名「船津橋」とも呼ばれ、昭和42年(1967年)6月15日には国の重要文化財に指定されています。日本の歴史的な石橋の中でも特に大きく、美しいアーチを持つ橋として知られています。
霊台橋は、明治以前に竣工した石橋として日本最大のアーチ径間を誇ります。その大きさは、大正、昭和時代の石橋も含め、日本で三番目に大きな規模を持つ石橋です。さらに、熊本県内における単一アーチ石橋としても最大のものです。
霊台橋が架かる緑川水系には、他にも多くの美里町指定の重要文化財があります。例えば、二俣橋(ふたまたばし)や馬門橋(まかどばし)といった石橋が挙げられます。また、近隣の山都町には、通潤橋、聖橋、金内橋などの歴史的な石橋が存在し、霊台橋と通潤橋は特に国の重要文化財に指定されています。
霊台橋の石材は、非常に精密に組み合わされ、石同士にはわずかな隙間もありません。この技術は、霊台橋が架けられる30年前に建設された雄亀滝橋で培われ、その後7年後に完成した通潤橋にも応用されました。霊台橋は種山石工によって建設され、多くの庶民が資金を出し合って造られたため、質素な設計が一般的です。しかし、霊台橋は深い谷に架かっているため、土台を流水から守るための補強用の石垣や、しっかりとした欄干が設けられています。
霊台橋が架けられた場所は、かつての日向往還の一部であり、船津峡と呼ばれる深い渓谷に位置していました。この地域では、緑川の流れが速いため、橋が無かった時代には船で渡ることが困難でした。増水時には船が使えなくなり、渓谷を荷物とともに昇り降りすることは非常に大変でした。そのため、役所でも急を要する際には、矢に通信文を結びつけてやり取りしていたという逸話も残っています。
文政2年(1819年)には木橋が架けられるようになりましたが、たびたび流されてしまいました。このため、惣庄屋である篠原善兵衛が、流される心配のない石橋の建設を提案し、資金を出して種山石工の卯助に建設を依頼しました。卯助は兄弟の宇市、丈八、そして地元の大工・伴七とともに工事を進め、弘化3年(1846年)に着工し、翌年の弘化4年(1847年)に当時としては前例のない大きさの石橋が完成しました。
霊台橋の建設は、梅雨や台風を避けるため、わずか6~7か月という短期間で行われました。工事には72人の大工が参加し、地元の農民も協力して延べ43,967人が参加しました。篠原善兵衛は、この協力体制が中国の古典「孟子」の文王霊台建造の話に似ていることから、「霊台橋」と名付けました。霊台とは「物見台」という意味です。
明治33年(1900年)、県道の一部として利用されることとなり、橋の上に石垣を積んで大型車も通行可能なように改修されました。昭和41年(1966年)には、隣に鉄骨製の新霊台橋が架けられ、霊台橋は観光用の人道橋となり、自動車の通行は禁止されました。さらに昭和55年(1980年)には、補強前の本来の姿に復元されましたが、補強の痕跡も歴史の一部として残され、現在に至っています。
全長:89.86m
道幅:5.45m
高さ:16.32m
径間(アーチの大きさ):28.3m
霊台橋はライトアップされており、幻想的な風景を楽しむことができます。近くには駐車場が整備されており、国道を挟んだ反対側には観光用の休憩所もあります。また、橋の近くには、新霊台橋の架設後に廃止された内大臣森林鉄道の隧道跡が残されています。
バスでは、熊本桜町バスターミナルから熊本バス辺場経由浜町行きに乗車し「霊台橋」バス停で下車、徒歩ですぐです。もしくは、砥用行きのバスに乗車し終点「砥用・学校前」で下車し、徒歩30分(2.5㎞)ほどです。自動車では、九州自動車道松橋インターチェンジから国道218号経由で約40分(19㎞)の距離にあります。周辺には10台ほどの駐車場、トイレ、売店、展望台などが整備されています。
霊台橋は、日本の歴史的な石橋として多くの観光客を惹きつけるスポットです。石造りの美しいアーチとその歴史的背景を感じながら、熊本の豊かな自然を楽しむことができる場所です。訪れた際には、ぜひ周辺の観光スポットと合わせて楽しんでください。