北里柴三郎記念館は、熊本県阿蘇郡小国町の「学びやの里」内に位置する博物館です。この記念館では、日本が誇る偉大な医学者である北里柴三郎の業績を讃えるため、彼の旧居宅や生家、当時の貴重な資料や書籍が展示されています。現在、一般財団法人「学びやの里」がこの施設の管理運営を行っています。
北里柴三郎に関する書籍や研究資料が保管されている書庫です。ここには、北里の業績や研究に関連する重要な文献が展示されており、医学史の理解を深めるための貴重な資料が揃っています。
「貴賓館」は北里柴三郎が帰省した際に使用していた居宅で、現在は訪問者と交流するための施設として利用されています。彼が過ごした時代の生活風景を垣間見ることができ、北里の私生活に触れる貴重な体験ができます。
北里柴三郎の生家も記念館の敷地内に移築されており、かつて彼が暮らしていた家の一部が公開されています。もともとは地域の集落にあったこの生家は、現在の敷地に移され、彼の生い立ちを知る手がかりとなっています。
北里柴三郎記念館の設立は1916年(大正5年)にさかのぼり、北里自身の「学習と交流」を目的とした理念に基づいて建設が開始されました。さらに1986年には、熊本県小国町の地域振興計画「学びやの里構想」により、記念館の再生プロジェクトが進められました。1987年(昭和62年)、北里学園の創立25周年を記念して、北里研究所と北里学園が協力し、この施設を「北里柴三郎記念館」として復活させました。
この記念館の使命は、「日本が世界に誇る医学者〜北里柴三郎〜の偉業を称え、後世へ伝える」という目的に基づいています。記念館は1995年に法人化され、現在は一般財団法人「学びやの里」が管理運営を担当しています。周囲には研修宿泊施設である「木魂館」や、「食と健康の交流館(北里バラン)」などがあり、地域住民や訪問者にとって重要な文化・生活の拠点となっています。
北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう)(1853年1月29日 - 1931年6月13日)は、日本の微生物学者であり教育者でもありました。位階勲等は従二位勲一等男爵に叙され、私立伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)や北里研究所、そして北里大学の学祖として知られています。
彼は「近代日本医学の父」として知られており、破傷風菌の純粋培養や血清療法の開発、さらにはペスト菌の発見など、日本の医学史において数々の偉業を成し遂げました。また、ノーベル生理学・医学賞の最終候補者にも選ばれたことがあります。
北里柴三郎は肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現・熊本県阿蘇郡小国町)に生まれました。父の惟保(これのぶ)は熊本藩の庄屋であり、温厚篤実な人物でした。母の貞(てい)は豊後森藩士の娘で、江戸で幼少期を過ごし、結婚後は庄屋としての務めを果たしました。
8歳の頃、北里は漢学者である伯父の下で漢学を学び、その後は母の実家に預けられて国書や儒学を学びました。1869年(明治2年)、細川藩の藩校である時習館に入寮しましたが、その後学校が廃止され、一時的に帰郷して地元で教師や役所の見習いとして働きました。
1871年(明治4年)、北里は藩立の西洋医学所に入学し、ドイツ人教師マンスフェルトに師事しました。マンスフェルトから特別に語学を教わり、短期間で語学を習得した北里は、後に通訳としても活動するようになりました。
1875年(明治8年)、北里は東京医学校(現・東京大学医学部)へ進学しましたが、教授との意見の相違から何度も留年することになりました。それでも1883年(明治16年)に医学士となり、予防医学に興味を持つようになり、「医道論」を著しました。
1885年(明治18年)、北里はドイツのベルリン大学へ留学し、世界的に有名な微生物学者であるコッホに師事しました。北里は破傷風菌の純粋培養に成功し、翌年には破傷風菌抗毒素を発見しました。また、「血清療法」を開発し、世界の医学界にその名を知らしめました。
1890年(明治23年)、北里は同僚のベーリングとともに「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表しました。この業績によりノーベル生理学・医学賞の候補に挙げられましたが、最終的にはベーリングが受賞しました。
北里はドイツ留学から帰国後、伝染病研究所の設立に尽力しました。1892年(明治25年)、福澤諭吉らの支援を受けて芝公園内に伝染病研究所を設立し、その所長に就任しました。この研究所は日本における伝染病研究の拠点となり、ペストや破傷風などの感染症に対する対策を講じました。
1894年(明治27年)、北里はペストの流行していた香港に派遣され、ペスト菌の発見という偉大な功績を残しました。同時期に、東京大学からも青山胤通が派遣されましたが、彼はペストに感染してしまいました。その後、東京大学派の一部から北里の発見を疑う声が上がりましたが、北里は自らの研究を通じてその信ぴょう性を証明しました。
1899年(明治32年)、私立伝染病研究所は国から寄付を受けて内務省の管轄下に入り、国立伝染病研究所となりました。研究所は次第に規模を拡大し、1906年(明治39年)には新たに東京白金台に移転しました。
しかし、1914年(大正3年)、政府は北里に何の相談もなく、伝染病研究所の所管を文部省に移管し、東京大学の下部組織とすることを決定しました。これに猛反発した北里は、伝染病研究所の所長を辞任し、新たに私費を投じて「私立北里研究所」を設立しました。そこで狂犬病、インフルエンザ、赤痢などの血清の開発に取り組みました。
福澤諭吉の没後、慶應義塾は医学科の設立を許可され、1917年(大正6年)に「慶應義塾大学部医学科」が誕生しました。北里はその初代学部長に就任し、北里研究所の優れた研究者たちを教授として迎え入れました。彼は生涯無給で医学部の発展に尽力しました。
明治以降、日本では多くの医師会が設立されていましたが、1917年(大正6年)、全国規模の医師会「大日本医師会」が設立され、北里がその初代会長に就任しました。1923年(大正12年)には「日本医師会」と改称され、初代会長として北里がその運営にあたりました。
北里柴三郎は、その生涯を通じて感染症の予防と治療に取り組み、日本の医学の発展に大きく貢献しました。破傷風菌やペスト菌の発見、血清療法の開発など、彼の研究は世界中で高く評価されています。また、北里研究所や慶應義塾大学医学部の設立を通じて、彼は後進の育成にも尽力しました。
彼の功績は「近代日本医学の父」として称えられ、北里柴三郎記念館ではその生涯と業績が紹介されています。訪れる人々は、彼の努力と情熱に触れ、現代の医学の基礎を築いた偉大な人物として北里を知ることができます。
所在地: 〒869-2505 熊本県阿蘇郡小国町大字北里3199
開館時間: 9:30~16:30 年中無休(ただし、12/29~1/3は休館)
入館料:
*障害者手帳をお持ちの方は200円の割引が適用されます。
JR九州豊肥本線阿蘇駅から九州産交バスの杖立温泉行に乗車し、「ゆうステーション」で下車、そこからタクシーで約5kmです。また、西鉄天神高速バスターミナルや博多バスターミナルからもアクセス可能で、福岡から黒川温泉線の高速バスに乗り、「ゆうステーション」で下車後タクシーを利用します。車の場合、九州自動車道熊本インターチェンジから約60km、大分自動車道日田インターチェンジからは約35kmの距離です。
北里柴三郎記念館の近くには、廃線となった国鉄宮原線の北里駅跡があり、静かな田園風景が広がっています。水田や畑が点在するのどかな環境の中、訪問者はリラックスして過ごすことができます。
東京都港区にある北里研究所の本館1階には「北里柴三郎記念室」が設けられ、北里の研究に関する資料が展示されています。これもまた北里の偉大な功績を知るための重要な施設となっています。
北里柴三郎記念館は、偉大な医学者である北里柴三郎の業績を讃え、その功績を後世に伝えるための重要な文化施設です。記念館だけでなく、周辺施設や田園風景も楽しむことができ、歴史と自然を堪能できる場所となっています。熊本県小国町を訪れる際は、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。