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富岡城

(とみおかじょう)

富岡城は、熊本県天草郡苓北町富岡(肥後国天草郡)にかつて存在した日本の城です。この城は江戸時代初期に築かれ、長い歴史の中で多くの重要な出来事が起こりました。現在、本丸跡には「熊本県富岡ビジターセンター」が整備されており、櫓や高麗門などが復元されています。

城の概要

富岡城は、天草下島の北西に位置する富岡半島の南東部の丘陵上に築かれた梯郭式の平山城です。城の周囲には袋池や巴湾といった自然の要塞があり、これにより外敵からの防御が強化されていました。また、陸からの攻撃も砂州のみでしか可能でなく、極めて攻めにくい構造でした。

1994年(平成6年)より発掘調査と復元作業が開始され、2005年(平成17年)にその作業が完了しました。現在、本丸の櫓は展示施設「富岡ビジターセンター」として使用され、天草の歴史や文化、自然について展示が行われています。

富岡城の沿革

築城と小西行長の時代

慶長5年(1600年)、天草郡を領していた小西行長は関ヶ原の戦いで西軍に参加し敗北したため、領地を没収されました。その後、慶長6年(1601年)、唐津城主・寺沢広高が天草郡4万2千石を与えられ、広高は慶長7年(1602年)から慶長10年(1605年)にかけて富岡城を築きました。

島原・天草一揆

寛永14年(1637年)、天草四郎を盟主とする島原・天草一揆が勃発しました。この一揆は、藩による重税とキリシタン迫害に対する不満が原因で、天草と島原の領民が蜂起しました。富岡城もこの一揆の舞台となり、激しい戦闘が繰り広げられましたが、最終的には城は守り抜かれました。その後、一揆軍は原城に立て籠もり、最終的に鎮圧されました。

山崎家治の時代

一揆の鎮圧後、天草郡4万2千石は山崎家治に与えられ、富岡城の改修が行われました。寛永18年(1641年)、家治は讃岐国丸亀城に転出し、その後の天草は一時的に天領となりました。

戸田忠昌の破城

寛文4年(1664年)に三河国田原城より戸田忠昌が入城し、富岡藩が再び成立しました。しかし、忠昌は城の維持管理が領民に重い負担をかけていると判断し、寛文10年(1670年)に本丸・二の丸を破却し、城の大部分を廃城としました。この決定は「戸田の破城」として知られ、後世に良策として評価されました。

明治時代以降

富岡城三の丸は明治維新まで天領代官所として機能し、明治元年(1868年)には天草県が成立し、代官所は県庁として利用されました。最終的には熊本県に編入され、現在は歴史的な遺構として保護されています。

現在の富岡城

本丸跡の施設

本丸跡には、復元された高麗門と櫓が整備されています。櫓の一つは「富岡ビジターセンター」として使用されており、天草の歴史や文化、自然に関する展示が行われています。

二の丸の歴史資料館

二の丸跡には「苓北町歴史資料館」が整備されており、ここでは天草回天之碑や歴史に関する展示が行われています。また、江戸時代末期の儒学者・頼山陽や明治維新で活躍した勝海舟の銅像が立っています。

アダム荒川の殉教公園

二の丸の駐車場下には、アダム荒川の殉教公園が整備されています。アダム荒川は、キリシタン迫害の中で信仰を守り、富岡城内で殉教しました。この公園には、彼を記念した3基の慰霊碑が建立されています。

アダム荒川の生涯

アダム荒川は、有馬家に仕えていましたが、イエズス会の宣教師の取りなしによって命を救われたことから、信仰に生涯を捧げました。徳川幕府の禁教令下で迫害を受け、富岡城内で斬首されました。彼は2007年にローマ法王ベネディクト16世によって「福者」に列せられました。

交通アクセス

富岡城へのアクセスは、熊本桜町バスターミナルや熊本駅から九州産交バス「あまくさ号」に乗車し、「本渡バスセンター」で下車。その後、富岡港行きのバスに乗り換え、「一丁目」で下車して徒歩14分の距離です。また、車では九州自動車道松橋インターチェンジから約95㎞の距離にあります。

Information

名称
富岡城
(とみおかじょう)

天草

熊本県