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崎津集落

(さきつ しゅうらく)

潜伏キリシタンの里

熊本県天草市河浦町﨑津一帯に広がる「崎津(﨑津)集落」は、古くから潜伏キリシタンの歴史が息づく特別な場所です。﨑津集落は、羊角湾に面しており、その独特な歴史と文化を背景に、重要文化的景観として選定され、世界遺産にも登録されています。

崎津集落の名称と歴史的背景

文化財としての価値

﨑津集落は、文化財保護法に基づき「天草市﨑津・今富の文化的景観」の名称で重要文化的景観として選定されています。さらに、2022年にはグッドデザイン賞を受賞し、その価値が国内外で高く評価されています。2018年6月30日には、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」としてユネスコの世界遺産に登録されました。

崎津集落の歴史

室町時代からのキリスト教布教

崎津集落の歴史は、室町時代に遡ります。1569年、天草氏が領有するこの地に、南蛮貿易目的でルイス・デ・アルメイダが招かれ、キリスト教の布教が始まりました。﨑津は、遣唐使船が寄港するなど古くから良港として知られており、ルイス・フロイスの『日本史』には「Saxinoccu(サキノツ)」として記録されています。

江戸時代の禁教令と潜伏キリシタン

1613年、江戸幕府による禁教令が発令され、キリスト教徒は迫害されましたが、﨑津の人々は潜伏キリシタンとして信仰を守り続けました。﨑津は外界と隔絶していたため、島原・天草の乱にも関与せず、その後もキリスト教を信仰し続けることができました。

長崎とのつながり

崎津の潜伏キリシタンたちは、長崎の五島の人々と同じように、ロザリオやメダイを使い、また貝殻を聖具として信仰を守りました。フランス人宣教師フェリエ神父が残した記録には、アワビの貝殻を用いてキリシタンが信仰を行っていた様子が描かれています。

信仰の工夫と隠れたキリシタンの生活

踏み絵を拒絶しない理由

崎津のキリシタンたちは、踏み絵を拒絶せず、表向き仏教徒を装うことで疑いを免れました。足の裏に紙を貼ることで聖像に直接触れない工夫をしたり、踏んだ足を洗い、その水を飲むことで罪の許しを求める伝承も残っています。

「天草崩れ」と信仰の危機

1805年には、「天草崩れ」と呼ばれる大規模な摘発が行われ、天草地域の潜伏キリシタンが摘発されました。しかし、江戸幕府の天領経営の維持という都合により、多くの人々が穏便に済まされ、信仰を守り続けることができました。

近代の崎津とカトリックへの復帰

明治期のカトリック復帰

明治6年(1873年)に禁教令が廃止されると、崎津のキリシタンたちは次第にカトリックへと復帰しました。1876年には多くが改宗し、1880年には崎津諏訪神社の隣に小さな教会が建てられました。この教会は1885年に大きな教会へと改築され、明治時代中期には約550戸のうち550戸がクリスチャンであったと言われています。

昭和から現代へ

昭和40年代には、漁法の近代化に伴い、漁業が発展し、特にちりめんじゃこ漁が最盛期を迎えました。その後も時代の変遷に合わせて集落は変化を遂げつつも、歴史と文化を守り続けています。

世界遺産への道

世界遺産登録の経緯

崎津集落が世界遺産として登録されるまでには、長い準備と調整が行われました。2007年、長崎県が世界遺産登録の推進を始め、2008年には天草市も登録推進室を設置しました。当初は崎津教会が登録対象でしたが、最終的には「天草の﨑津集落」として構成資産に追加され、2018年に正式に世界遺産として認められました。

まとめ

崎津集落は、潜伏キリシタンの歴史と文化を色濃く残す貴重な場所です。江戸時代の厳しい禁教令の下で、信仰を守り続けた人々の工夫と、現在もなお息づく文化的景観は、多くの人々に感動を与えています。世界遺産に登録されたことで、今後もその歴史的価値は国内外でさらに高まり続けるでしょう。

Information

名称
崎津集落
(さきつ しゅうらく)

天草

熊本県